海のことも信じていない。
そう言ってから、部屋の空気が重くなったと思った。「……」
大地は頭を掻き、小さく息を吐いた。
「俺たちの話はこんなところだ」
「うん……」
「でもまあ、聞いたからと言って、青空姉〈そらねえ〉に変な気を使わないでやってくれ。そういうの、青空姉〈そらねえ〉はすぐ分かるから」
「……分かった」
「浩正〈ひろまさ〉さんにもな」
「どういうこと? 今の話に浩正さん、全然出てこなかったけど」
「浩正さんは、青空姉〈そらねえ〉の婚約者だ」
「そうなんだ……」
確かに二人の距離は、雇い雇われの関係よりずっと親密だった。そう思い納得した。
「浩正さんは全部知ってる。でも浩正さんにとって、それは大した問題じゃないんだ。
それは全部過去の話。僕が知りたいのは、これから青空〈そら〉さんがどんな人生を歩みたいのか、それだけなんですって」「……」
「どれだけ幸せな過去を持っていても。どれだけ立派な人生を歩んでいても。これから堕ちていく人もたくさんいます。僕にとって過去というのは、その程度のものなんですって笑ってた。
どれだけ辛い過去を背負っていたとしても、それでも前を向き、幸せを求めて進もうとしてる青空〈そら〉さんのことが好きなんですって」その言葉に海が微笑む。
そして思った。 浩正さんって、裕司〈ゆうじ〉とちょっと似てるかも、と。「青空姉〈そらねえ〉もそんな浩正さんのことが好きで、いずれ結婚したいと思ってる。何より浩正さんの夢を応援したい、一緒に叶えたいと思ってる」
「いつかあの場所で、介護施設を立ち上げるって夢?」
「ああ。今みたいな協力じゃなく、自分が理想とする施設を立ち上げたいって夢だ」
「浩正さんなら出来ると思う」
「俺もそう思う。まあ、
「いらっしゃいませ!」 喫茶とまりぎで。 海が元気よく声を上げた。「あらあら海ちゃん、今日も元気いっぱいね」「あはははっ、ありがとうございます濱田さん」「ほんと、海ちゃんが来てから、ここの雰囲気が明るくなったわ」「そんなそんな。褒めても何も出ないですよー」 照れくさそうに笑う海。 そんな彼女に微笑みながら、浩正〈ひろまさ〉が濱田に声をかける。「いらっしゃいませ濱田さん。スタッフを褒めてもらって嬉しい限りなのですが……前は暗かったですか」「ああ浩正くん。ごめんなさいね、そういう意味じゃないのよ。ここはいつ来ても和やかで楽しくて、私たちにとって憩の場所なんだから。海ちゃんが来てくれて、もっともっと楽しい場所になったってことよ」「はははっ、ありがとうございます」「海ちゃんのおかげで青空〈そら〉ちゃんも楽しそうだし。ほんと、いい人が入ってくれてよかったわ」「そんなー。濱田さん、褒めすぎですってばー」「うふふふっ。ほんとのことだから、照れなくても大丈夫よ」 客と海のやり取りをパントリーで眺めながら、誰に話すともなく大地がつぶやいた。「なんだよこの状況……」 * * * 大地と海が過去を打ち明けあったあの時、海は言った。 あんたを幸せにしてみせると。 その言葉にどんな意味が込められているのか、その時の大地には分からなかった。 全てに絶望し、人を信じることを放棄した自分には、この世界で生きる資格がない。 そして自分にとって最も大切な存在、青空〈そら〉の幸せの最たる障害。それが自身であり、一刻も早く取り除きたいと思っていた。そして事実、行動を起こした。 しかしその時、海と出会ってしまった。 海の死を見届けるまで、俺は死なない。 彼女と交わした約束を、大地は後悔していた。 当の海が、まさかここから復活するとは思ってもなかった。 確かに
二人が向かった先は、近くの居酒屋だった。 店に入ると青空〈そら〉は店員に声をかけた。店員はうなずき、奥の個室へと二人を案内した。「ここ、よく来るんですか」「うん、これでも常連。と言うか、他の店だと入れてもらえないことが多いから。飲む時はここって決めてるの」「入れてもらえないって、青空〈そら〉さん、ブラックリストにでも載ってるんですか?」「んな訳ないじゃん、なんでそうなるのよ」 そう笑顔で突っ込む。「見た目の問題だよ。40が目前に迫ってるのに、私は未成年にしか見えない」 ああなるほどと、海は妙に納得してしまった。「はいそこ、納得しないの」「あはははっ……すいません、分かっちゃいましたか」「未成年が煙草吸って酒飲んでる。店の人は分かっていても、他の客が気になって仕方がない。だからここで飲む時は、いつも個室に連れてかれる」「だから今日も個室なんですね。空いてる席が多いのに、なんでだろうって思ってました」「まあそれと、今日は色々話せればと思ってるからね。個室の方が都合いいんだ」 その言葉に、海が肩をピクリとさせた。「それって……どういう意味でしょう」「ああ店員さん、とりあえず生ふたつで」 手馴れた様子でそう店員に告げ、青空〈そら〉がメニューを閉じる。「海ちゃんは嫌いなものとかある?」「いえ、特にはないです」「じゃあ店員さん、いつものようにおまかせで。予算1万ぐらいでよろ」「分かりました」 しばらくして、店員が付け出しと生ビールを持ってきた。「それじゃあ海ちゃん、とりあえずお疲れ」「お、お疲れ様です」 そう言ってジョッキを重ね、二人がビールを口にする。「うまい! この一杯の為に生きてるわー」 青空〈そら〉が満足そうに笑顔を見せる。しかし海は落ち着かない様子で、「あはははっ、そうですね」と愛想笑いを浮かべた。
「初めて海ちゃんを見た時、すぐに分かったよ。ああ、この子は今、絶望の中で生きてるんだなって」 運ばれてきたビールに口をつけ、青空〈そら〉が静かに言った。「でも……確かにそうなんですけど、青空〈そら〉さんたちに比べたらこんなこと、全然大したことじゃないって言うか」「それは誰にも決められることじゃないよ。自分にとって大したことじゃなくても、その人にとっては人生の一大事だってことはいっぱいある。例えばそうだね、学生さん。テストの点が悪くて絶望してる。それが理由で死ぬ人だっている。海ちゃんはどう思う?」「それは……また次に頑張ればいいと思います。それに成績ぐらいで死ぬなんて、大袈裟過ぎると思います」「でもそれはね、私たちにとって過去の話だからなんだ。何年も経ってる今だからこそ、言えることなんだ。一度失敗したぐらいで死ぬだなんて、そんな暇があるならもっと勉強しろよって思っちゃう。勉強以外にも大切なことはあるよ、もっと世界は広いんだよって思っちゃう」「……」「でもその人からすれば、それが全てなんだ。それ以外何も見えなくて、世界から見捨てられたぐらいの絶望なんだ。 人によって悩みは様々。そしてその大きさも違う。自分の物差しだけで判断して、他人の苦しみを一蹴するのは馬鹿のすることだ」「言いたいことは分かりますけど……」「だからね、海ちゃんが私たちに同情する必要はないし、自分の悩みがちっぽけだなんて卑下することもないんだ。海ちゃんが抱えてる問題は、海ちゃんにとっては世界から消えたくなるぐらいの絶望なんだ。それが例え、虫歯が痛いって理由だとしても」「ふふっ、なんでそこで虫歯なんですか」「だって痛いじゃない虫歯。悪化した時に歯医者が休みだったら、絶望以外の何物でもないよ? 生き地獄だよ?」「そうですけど、ふふっ……もっと別の例えがありそうじゃないですか」「あはははっ、確かにね。でもそういうことなんだよ。生きていればいっぱい悩む。困難なこともあるし、絶望だってそこら中に転がってる。だからね、自分がちっぽけだなんて思う必要はないんだよ。
海は全てを話した。 両親を亡くしたこと。裕司〈ゆうじ〉との出会い。 そして裕司を失って、全てに絶望したことを。 時折声が震え、涙がこぼれ落ちた。 青空〈そら〉は黙って海の話を聞いていた。 4本目の煙草を消し終わった頃に、海の話はひと段落ついた。「そっか……」 そうつぶやき、ビールを飲み干す。 結構なペースだ。この小さな体のどこに入っていくんだろう、そう思った。「今私のこと、ちっこいって思ったろ」 この人は本当、なんですぐに分かっちゃうんだろう。海が引きつった笑顔で首を振った。「ちっこい方がいいことだってあるんだよ」「どんな時ですか?」「うっ……海ちゃん、結構辛辣だね」「そんなことないです。ただの好奇心です」「勿論それは……って、あんまりないな」「……ないんですね」「でもほら、浩正〈ひろまさ〉、浩正くん! この体のおかげで、私はあいつをゲット出来た!」 そう言って胸を張り、ドヤ顔をした。「あいつロリコンだからね。未成熟なこの容姿にメロメロなんだよ」「そうなんですか? この前大地と話してるのを聞いたんですけど、巨乳で有名な女優をべた褒めしてましたよ。綺麗な人ですねって」「なっ……海ちゃん、その話詳しく」「あ、それは……あははっ、またの機会に」「絶対だよ」 そう言って5本目の煙草に火をつけた。 海は深呼吸した。 この先の話は、大地のことでもある。 果たして話していいのだろうかと、少し躊躇した。 そんな海に気付いたのか、青空〈そら〉は白い息を吐いて笑った。「庇う必要はないよ。まああいつのことだ、大体のことは察しがついてる」 やっぱりこの人、心が読めるんじゃない? そう思った。「裕司の49日が終わって、私がするべきことは全部終わったんだと思いました。裕司のご両親は優しい方で、こんな私に
「じゃあ、あいつはまだ死ぬ気なんだね」「……はい」 締めの雑炊を食べながら、青空〈そら〉がため息をつく。「海ちゃんを追い出したら、また男を漁りに夜の街に向かう」「漁りにって……色情狂みたいに言わないでくださいよ」「色情狂なら救いがあるけどね。少なくとも快楽が目的なんだから、自分にとってもメリットがある。でも海ちゃんのそれは、ある種の自傷行為でしょ」「……」 大地と同じこと言うんだな、そう思った。「だから海ちゃんを泊めさせたのは理解出来る。あいつがしそうなことだ」 箸を置き、手を合わせる。「ごちそうさまでした。最高でした」 そう言って微笑んだ。「それで海ちゃん、いつまであいつのところにいる予定?」「それは……」「裕司〈ゆうじ〉さんのところに行くって気持ちは、まだ生きてるんだよね」「勿論です。私は裕司のこと、片時も忘れてませんから」「近いうちに行動を起こす、そういうことかな」 そう言われ、言葉に詰まった。 どうしてだろう。ついこの前までは、即答出来たのに。「私は……そんなに度胸のある人間じゃありません。あの日電車に飛び込もうとしたのだって、覚悟に覚悟を重ねて無理矢理動いたんです。あんな覚悟、そうそう出来るものじゃありません。だから……その覚悟が出来るまで、泊まらせてほしいって言ったんです」「大地はなんて?」「構わない、それまで面倒みてやるって。私が死んだのを見届けてから、自分も死ぬって」「それなのに海ちゃん、覚悟を育てるどころか、とまりぎで働くことになって。大地も当てが外れたんじゃない? と言うか、海ちゃんのその心変わり、どういうことなの?」「……大地の過去を聞いて、死にたい理由を聞いて……私、腹が立ったんです」「腹が立った、ね……でもさ、死にたい理由なんて、人それぞれでいいんじゃない?」「そうなんですけど……あの時の大地を見てたら、怒りが抑えられ
青空〈そら〉の結婚宣言に、大地が固まった。「おーい、生きてるかー」 そう言って肩を叩かれ、我に帰る。「……」 青空姉〈そらねえ〉、今なんて言った? 結婚? なんで急に? と言うか、なんで今? そんな思いが脳内を巡り、混乱した。「いやいやいやいや、待て待て待て待て。なんでいきなり、そういう話になってるんだよ」「あははははははっ、大地テンパリすぎ」「笑ってんじゃねーよ。ちゃんと説明しろ。大体浩正〈ひろまさ〉さんの了承はとれてるのかよ」「勿論です。僕はずっと待ってましたからね、嬉しいですよ」 浩正が微笑む。「プロポーズしたのも、随分昔のことですし」「5年くらい前だっけ?」「はははっ、もうそんなになりますか」「と言うか青空姉〈そらねえ〉、一体何があったんだよ。訳分かんねえぞ」「あんただって、さっさと結婚しろって言ってたじゃない」「そうなんだけど……いやいや、俺が聞きたいのはそうじゃなくて」「お姉ちゃん……お嫁にいっちゃ、駄目?」「猫撫で声出してんじゃねーよ。締め落とすぞ」「分かった! 大地、お姉ちゃん取られて寂しいんだ!」「んな訳ねーだろ。歳考えろ」「あははははははっ、可愛いなー、私の弟はー」 青空〈そら〉に抱きしめられ、赤面した大地が慌てて離れる。「とにかくその……本当なんだな」「祝ってくれる?」「勿論だ。まあ、青空姉〈そらねえ〉に嫁が務まるか不安だけどな」「それは大丈夫。浩正くんの家事スキル、無敵だから」「いやいやいやいや、青空姉〈そらねえ〉がしろよ」 そう言って苦笑し、照れくさそうに浩正に頭を下げる。「浩正さん。こんな姉ですけど、どうかよろしくお願いします」「こちらこそ。今日まで青空〈そら〉さんを守ってくれて、ありがとうございまし
「青空姉〈そらねえ〉が結婚……浩正〈ひろまさ〉さん、あんな女相手によく決心したな」 夕飯時。そうつぶやいた大地に、海が間髪入れず突っ込んだ。「ちょっと大地、実の姉にその言い方はないんじゃない?」「え? ああすまん、声に出てたか」「思いっきりね。じゃなくて、出さなきゃいいって問題でもないでしょ」「ははっ、確かにそうだ」「でもよかったじゃない。仲良し姉弟としては、お姉さんの幸せは何よりでしょ」「確かにそうなんだが……でも青空姉〈そらねえ〉、ほんと家事が酷いからな。浩正さんには同情しかないよ」「そんなに?」「ああ、そんなにだ。まず料理が壊滅的だ。卵も割れない」「……マジで?」「マジだ」「でもほら、野菜を切るぐらいなら」「青空姉〈そらねえ〉が包丁握れると思うか?」「あ、そうだったね……ごめん」「謝らなくていいよ。特殊な青空姉〈そらねえ〉に問題があるんだから」「じゃあ、大地が料理得意なのって」「ああ、青空姉〈そらねえ〉と暮らすようになってからだ。でないと二人共餓死してしまうからな、ある意味命がけで覚えたよ」「その辺の話、聞いてみたいって言ったら怒る?」「別に。隠してる訳でもないしな」「じゃあ聞かせてほしい。あと出来れば、浩正さんとの出会いとかも」「そんなの聞いてどうするんだよ。好奇心か?」「それもあるんだけど……あのね、前に大地から話を聞いて。そして青空〈そら〉さんと話して思ったの。本当に私は恵まれてたんだなって」「いいことじゃないか。わざわざ悪い環境に身を置く必要もないだろ」「そうなんだけど、ね……大地たちと出会ったことで、私の中で何かが変わろうとしてるの。それが知りたいって言うか」
自分の中で、何かが変わろうとしている。 その事実に戸惑い、海は首を振った。「とにかく……私はまだ死なない。矛盾だらけだって分かってる。でも私は、この偶然の出会いを大切にしたい。例えそれが、人生最後に見てる夢だとしても」「……そうか」「だから大地、聞かせてくれる?」「ああ、構わない。じゃあ風呂に入ってから話すか」「うん」 海の中で、様々な葛藤がうごめいているのが分かる。しかしそれは、決して悪いことではないんだと大地は思った。 こうやって人と出会い、人の人生に触れて。 絶望が希望に変わっていくのも悪くない。 お前ならまだやり直せる。 その一助になると言うなら、もうしばらく付き合ってやるよ。そう思った。 * * *「青空姉〈そらねえ〉の高校卒業と同時に、俺たちは施設を出た」「その頃の大地って、まだ中学生よね」「ああ、中二だった。だから働くことも出来ない。青空姉〈そらねえ〉はそんな俺を引き取って、面倒をみてくれた。 と言っても青空姉〈そらねえ〉、あの見てくれだ。正規で雇ってくれるところはなかった。だから色んなバイトを掛け持ちして、生きる為の金を生み出してくれた。そんな青空姉〈そらねえ〉の力になりたくて、俺は青空姉〈そらねえ〉名義でよく内職をやってた。あと家事と」「……」「青空姉〈そらねえ〉の作った料理は、正に殺人兵器だった。あれなら食材をそのまま食べた方がマシだった。とにかくなんだ、命の危険を感じた俺は、必死になって料理を覚えた」「なんか……ふふっ、想像したら笑っちゃうね」「笑いごとじゃねえよ。ああ、俺はもうすぐ死ぬんだな。でもまあ、青空姉〈そらねえ〉に殺されるなら悪くないか、そこまで覚悟を決めたんだからな」「……どんな料理だったのか、見てみたい気はするけど」
「おかえり、寒かっただろ。早く入ってあったまれよ」 そう言って海の方を向き、大地が固まった。「どう……したんだ、海……」 ふわふわで長かった髪がばっさり切られ、ストレートになっていた。 そして色が、明るい茶褐色から黒に変わっていた。「何か……あったのか……」「何かって、何が?」「い……いやいや、聞いてるのは俺だ。大丈夫なのか」 こんなにうろたえてる大地を見るのは初めてだ。また新しい大地を知れた、そう思い微笑む。「まあ、ね……気分転換って言うか」「それにしては思いきりが良すぎるだろ。よく分からんが、あそこまで伸ばすのは大変だっただろ? 毎日手入れしてたし、あのふわふわな髪は女子の憧れじゃないのか」「確かに惜しいと思ったよ。でもほら、仕事中、髪が結構邪魔だなって思ってたし」 そう言われ、確かに海は仕事中、いつも髪を束ねていたなと思った。「あと、その……自分に対するけじめって言うか」 頬を赤らめうつむく。そんな海に動揺し、大地が慌てて視線を外した。「とにかくその……なんだ、早く中に入れよ。そんなところに突っ立ってたら風邪ひくぞ」「うん……そうだね」 海にとってこの行動は、今言った通り、自身に対するけじめでもあった。 裕司〈ゆうじ〉はいつも、自分の髪を褒めてくれた。 綺麗ですね、そう言って撫でられるのが嬉しかった。 その髪を切ることで、裕司と過ごした日々を、自身の想いを。 過去の思い出へと変える。 髪を切られる時、感情が溢れて止まらなかった。 涙ぐみ、肩が震えた。 そんな彼女を気遣い、美容師が手を止めたほどだった。 そして生まれ変わ
「裕司〈ゆうじ〉……今なんて」 ――僕はあなたに、生きて幸せになってほしい―― 呆然と裕司を見上げる。 自分にとって唯一の希望。その裕司から、残酷に突き放された気がした。「……私はあなたといたいの! 毎日あなたに触れて、あなたの声を聞いて。でも、あなたはもういなくて…… だったら私が行くしかないじゃない! ねえ裕司、なんでそんなこと言うの? どうして私に、今すぐ来いって言ってくれないの?」 ――海さんは今、生きています。それは僕が、最後の瞬間まで望んでいたことなんです――「どういうこと? どっかの映画みたいに、私が死にたいと思ってるこの日は、あなたが生きたいと思った一日なんだって言いたいの?」 ――僕は運命を受け入れました。勿論、叶うものなら生きていたかった。でもそれが無理なことは分かってました。 僕の願いはただひとつ、海さんの幸せなんです。海さんが生きて、今いる世界で笑ってることなんです――「酷いよ裕司……あなたがいないのに笑えだなんて……」 涙が止まらなかった。「私に残された、たったひとつの願い……あなたの元に行くことすら、私には許されないの?」 ――海さんは生きてる、生きてるんです。命ある限り、その世界で幸せを求めるべきなんです――「無理だよそんな……だって裕司、いないじゃない……」 ――こんなにもあなたに愛されて、僕は幸せです――「だったら!」 ――でも……僕は死者です。この世界に存在しない者です。その願い、叶えてはいけないんです――「……」 ――死者はどこまでいっても死者です。あなたを愛することも、抱きしめることも出来ません。あなたの中に生きている僕は、過去の残
次の休日。 海は裕司〈ゆうじ〉の墓に来ていた。 大地は何も聞いてこなかった。ただ何となく、察しているように思えた。 相変わらずだな、大地。 そういうところに惹かれたんだろうな、そう思った。 * * * その日は朝から、冷たい雨が降っていた。 腰を下ろし、じっと墓を見つめる。 雨が傘を叩く音が心地よかった。「久しぶり、裕司……中々来れなくてごめんね。最近バタバタしてて……あなたのこと、忘れてた訳じゃないの。あなたの一部はここにある訳だし……って、言い訳だよね」 そう言って胸のペンダントを握り締める。その中には墓の中同様、裕司の一部が納められている。「私、どうしたらいいのかな。こんなこと、裕司に聞くのはおかしいって分かってる。でも……裕司の本当が知りたくて……」 何度も何度も問いかける。しかし答えが返ってくることはなかった。「まあ、そうだよね……」 苦笑し、立ち上がる。 そして墓をそっと撫で、「また来るね」 そう言ってその場を後にした。 * * *「……」 帰り道。海はあの駅に立ち寄った。 かつて人生を終わらせようとした場所。 大地と出会った場所に。 駅員にバレないよう、リュックから帽子を取り出し、深くかぶる。 懐かしいな、このベンチ。そう思い、そっと撫でる。 ここに座って、電車に飛び込む勇気を育てて。 そしてようやく覚悟が決まり、いざ飛び込もうとしたら。 大地が飛び込もうとしてた。 思い返し、苦笑する。 何度か列車が通過していった。ほんと、物凄いスピードだ。 あれに飛び
「で、あいつのどこを好きになったの?」 いきなりの剛速球に、海が困惑した。 * * * 休憩時間。 運動場のベンチに並んで座り、青空〈そら〉が煙草に火をつけた。「青空〈そら〉さん、直球すぎます……」「あはははっ、ごめんごめん。大地に言わせれば私、アイドリングを知らない女らしいから」「何ですかその例え、ふふっ」「でも休憩時間も短いし、前置きはいいでしょ。それでどうなの、ほんとのところは」「私は……」 空を見上げ、海が目を細める。 昼下がりの住宅街は静かで、心が洗われるような気がした。 今なら素直に話せるかも、そう思った。「大地のどこが好きとか、そういうのはないんです。何て言ったらいいのかな、さっきの青空〈そら〉さんの言葉じゃないですけど、大地といると肩肘張らず、そのままの自分でいられるって思ってたんです」「それ、いいことだと思うよ。結婚してからの必須条件だから」「そうなんですか?」「うん、そう。私も浩正〈ひろまさ〉くんと住むようになって思ったんだけどさ、言ってみれば私たち、他人な訳じゃない? だからその人が何を感じ、何を思ってるか分からないから、いつも気になってしまうんだ。そしてそれが積み重なっていく内に、いつの間にかストレスになってしまう」「浩正さんともそうだったんですか?」「そうなると思ってた。だから最初の内はかなり気を使ってた。でもそんな時、浩正くんが言ったんだ。『そういうの、疲れませんか』って」「……」「その言葉を聞いてね、思ったの。勿論、最低限の礼儀はいるよ? でもね、必要以上に気遣うことは、言ってみれば相手を鎖で縛ることになるんだ。 そしてこうも思った。考えてみれば私、大地に対してはそんなことなかったなって」「それってどういう」「あいつは弟、家族だ。家族ってのは、そう
朝目覚めて。 目の前に大地の背中があり、安堵した。 微笑み顔を埋める。 そして思った。思い返した。 昨日大地に言ったことを。「私はそんな大地のこと、好きだよ」「大丈夫、今のは友達としての好きだから」「今はまだ、ね……」 自分の言葉に赤面し、動揺した。 なんで私、あんなこと言っちゃったの? 大地と出会って1か月。色んなことがあった。 知らなかった世界に触れた。 そして。大地や青空〈そら〉さんの過去を聞いて。 いかに自分が恵まれていたか、幸せだったのかを知った。 甘えていたのかを知った。 両親との別れは辛かった。 裕司〈ゆうじ〉との別れに絶望した。 でも。それでも。 あの人たちとの思い出に、私の心は温かくなった。 しかし。大地はどうだろう。 過去を思い出すたび、身が引き裂かれるような思いをしてるに違いない。 それでも彼は笑顔を絶やさず、人々の為になろうと生きている。 そんな強さに憧れた。 だけど。 今自分の中にある感情は、ただの憧れとは思えなかった。 そして、その感情に覚えがあることに気付いた。 その感情。それは。 裕司に向けたものと似ていた。「……」 そんなことある? 私にとって、愛する人は裕司だけだ。 彼に会いたい、その一心で命を断つ決意もした。 その私が、裕司以外の男に心を寄せている? そんな馬鹿なこと、ある訳がない。 それは裏切りだ、不義だ。許されるものじゃない。そう思い、打ち消そうとした。 しかしその時、大地の言葉が脳裏を巡った。「生きるにしろ死ぬにしろ、それは海が決めることだ。俺はただ、その選択を尊重するだけだ」「死ぬまでここにいればいいよ」 大地らしい、デリカシーの欠片もない言葉。でも温かい
「素敵……」 海が目を輝かせた。「素敵かどうかは知らないけど、そうして青空姉〈そらねえ〉は無事、社会復帰を果たした」「大地はいつからとまりぎに?」「俺はかなり後になってからだ。まあそれまでも、ちょくちょくヘルプで入ってたけどな」「そうなんだ……そして青空〈そら〉さんは、浩正〈ひろまさ〉さんに告白されて」「いや、告白は青空姉〈そらねえ〉からだ」「そうなの?」「ああ。それも電光石火だったぞ。いつしたと思う?」「いつって、それはやっぱり相手のことを知ってからになるから……半年後ぐらい?」「出会ったその日だ」「ええええっ?」「あの日、家に浩正さんを連れてきて。仕事の話を色々聞かされて、青空姉〈そらねえ〉は益々やる気になってた。まあ、その前にもう決めてたみたいなんだけどな。それで一緒に酒飲んでる時に、俺の目の前で告白しやがった」「……ほんと青空〈そら〉さん、アグレッシブだね」「いやいや、そんないいものじゃないから。弟の目の前で告白する女なんて、聞いたことないぞ」「それで浩正さん、オッケーしたの?」「ああ。それにもびっくりしたけどな」「何と言うかほんと、面白い人たちね」「変わり者ってだけだよ」 そう言って苦笑し、新しいビールを冷蔵庫から取り出した。「それで半年後、青空姉〈そらねえ〉は浩正さんの家に転がり込んでいった」「同棲ってこと?」「ああ。それまで何度も泊まりに行ってたからな、時間の問題だと思ってたよ」「そうなんだ」「もう大地は大丈夫、そう言って笑いながら出て行きやがった」 そう言って笑う大地を見て、こんな笑顔も見せるんだ、そう海が思った。 そして同時に。 胸が高鳴るのを感じた。「青空姉〈そらねえ
「それで? 何があったのか、聞かせてもらえますか」 警官の問い掛けに、浩正〈ひろまさ〉が状況を説明する。 穏やかに、淡々と。 青空〈そら〉は男に手をつかまれた時、いわゆるフラッシュバックが起きていた。もう一人の警官が肩に手をやると叫び声を上げ、過呼吸状態に陥った。 一通りの説明を済ませた浩正がジャケットを脱ぎ、青空〈そら〉の肩にかける。そして、「落ち着いて、ゆっくり息をしてみてください。大丈夫、もう怖くないですよ」 そう言って微笑んだ。 そして鞄からコンビニの袋を取り出し、青空〈そら〉に差し出した。 青空〈そら〉は袋を受け取ると口をつけ、浩正の言う通りゆっくりと息をした。 そうしてる内に震えが収まり、袋を外すと、「……もう大丈夫です。ありがとうございました」そう言って袋を返した。 浩正が笑って「今日の記念にどうぞ」と言うと、「何それ、ふふっ」と笑顔を見せた。「ええっと、落ち着いたところ恐縮ですが……大体の事情は分かりました。こういう場所ですから、次からは気を付けてください、と言いたいところなんですが……君、歳はいくつかな」 若い方の警官が青空〈そら〉に聞いた。 青空〈そら〉は見るからに面倒臭そうな表情を浮かべ、大きなため息をついた。「君、未成年だよね。未成年がこんな時間、こんな場所で何してるんだ? それに君、飲酒喫煙もしてるようだけど」「私、23歳なんですけど」 青空〈そら〉が吐き捨てるように答える。その言葉に、若い警官は呆気にとられた表情の後、苦笑した。「どう見ても君、中学生じゃないか。身分を証明するものは?」「持ってません」「なら親御さんに連絡を。連絡先は?」「親はいませんよ。生きてるかもしれないけど、はてさてどこにいるのやら」「君、ふざけた言い方はやめなさい」「ふざけてなんかいませんよ。本当のことですから」「嘘
その日、青空〈そら〉は繁華街にいた。 大地が高校を卒業してから、何となく家に居辛くなっていた。 どこで働いても長続きしない。華奢な体と眼帯のおかげで、周囲とうまく馴染めなかった。それでも頑張れていたのは、大地がいたからだった。 父親に殴られ、母親に罵倒され。姉である自分だけが頼りで、いつも後をついてきた大地。そんな大地のことが愛おしかった。もし自分が見捨てれば、大地は生きていけないだろう、ずっとそう思っていた。 そう思っていたのに。成長した大地はいつの間にか、自分より社会に順応出来るようになっていた。 頭もよく、家でいつも資格の勉強をしている。そんな弟に対し、青空〈そら〉は強烈な劣等感を持つようになっていった。「青空姉〈そらねえ〉、今までありがとな。これからは俺が青空姉〈そらねえ〉を守るから」 そう言った大地を直視出来なかった。 悪気がないのは分かってる。心からそう思っていることも理解していた。 しかしその時の青空〈そら〉は、お前の役目は終わったんだよ、そう言われたような気がしていた。 事実、あっさりと自分の稼ぎを越えられてしまい、青空〈そら〉の自尊心は音を立てて崩れていった。 私にはもう価値がないのだろうか。そんな自虐的な思考にさいなまれ、いつしか青空〈そら〉は働く意欲をなくしていった。 そんな青空〈そら〉に対し、大地は愚痴のひとつもこぼさなかった。それがまた、青空〈そら〉を苦しめた。 一緒にいると息苦しくなり、大地が帰宅する頃を見計らって、こうして夜の街を徘徊する。そんな日々が続いていた。 その日も適当な場所に座り煙草に火をつけると、家から持ってきた缶ビールを開けて飲みだした。 * * *「お嬢ちゃんお嬢ちゃん、こんな時間に何してるの?」 またか……そう思い顔を上げると、男が二人、自分を見降ろしていた。 茶髪と黒髪。見た感じ、大学生と言ったところか。「何か用?」 容姿に不似合いな大人びた物言いに、
自分の中で、何かが変わろうとしている。 その事実に戸惑い、海は首を振った。「とにかく……私はまだ死なない。矛盾だらけだって分かってる。でも私は、この偶然の出会いを大切にしたい。例えそれが、人生最後に見てる夢だとしても」「……そうか」「だから大地、聞かせてくれる?」「ああ、構わない。じゃあ風呂に入ってから話すか」「うん」 海の中で、様々な葛藤がうごめいているのが分かる。しかしそれは、決して悪いことではないんだと大地は思った。 こうやって人と出会い、人の人生に触れて。 絶望が希望に変わっていくのも悪くない。 お前ならまだやり直せる。 その一助になると言うなら、もうしばらく付き合ってやるよ。そう思った。 * * *「青空姉〈そらねえ〉の高校卒業と同時に、俺たちは施設を出た」「その頃の大地って、まだ中学生よね」「ああ、中二だった。だから働くことも出来ない。青空姉〈そらねえ〉はそんな俺を引き取って、面倒をみてくれた。 と言っても青空姉〈そらねえ〉、あの見てくれだ。正規で雇ってくれるところはなかった。だから色んなバイトを掛け持ちして、生きる為の金を生み出してくれた。そんな青空姉〈そらねえ〉の力になりたくて、俺は青空姉〈そらねえ〉名義でよく内職をやってた。あと家事と」「……」「青空姉〈そらねえ〉の作った料理は、正に殺人兵器だった。あれなら食材をそのまま食べた方がマシだった。とにかくなんだ、命の危険を感じた俺は、必死になって料理を覚えた」「なんか……ふふっ、想像したら笑っちゃうね」「笑いごとじゃねえよ。ああ、俺はもうすぐ死ぬんだな。でもまあ、青空姉〈そらねえ〉に殺されるなら悪くないか、そこまで覚悟を決めたんだからな」「……どんな料理だったのか、見てみたい気はするけど」